伽藍の堂

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東京ステーションギャラリー 鴨居玲展に行く

 現在、東ステーションギャラリーで開催中の『没後30年 鴨居玲展 踊り候え』を観に行く。以前、この美術館に来たとき、パンフレットがあり、印象深かったのを覚えている。

 

 どんな作品、人物なのか。という紹介はまとめがあったのでこちらを

参照していただきたい。

 

matome.naver.jp

 

 このパンフレットにある『出を待つ道化師』は見ての通り、赤い

色が鮮烈である。しかし、他の作品は全体的に、暗い色使いが多い。

 

 数多くの作品があったが、いくつかのモチーフがあることが明確である。

 

 先ず、教会である。色や構図が異なるが、「教会」というタイトルの絵が何度も登場する。どっしりと目の前に教会が描かれている作品もある。しかし、だんだんと教会が遠ざかり、空に浮かんでいる作品さえある。

 

 次に、市井の人である。具体的には、よっぱらいの中年男性や老婆である。はっきりと断言できるが、「美しく」ない。 一般的なイメージの美術品というのは、端正な貴族や美しい女性の肖像などだろう。しかし、この人の作品は違う。赤ら顔の酔った男性やしわだらけの老婆、または賭博に興じる人である。脂ぎった顔やしわの刻み込まれた顔を何度も描いている。

 

 最後に、自画像である。道化師の姿もあるが、これも自画像と言えるようだ。なぜなら、自画像として描かれている作品と顔の描き方が同じであるからだ。道化師といえば、涙がペイントされ、笑っている表情が一般的だろう。しかし、道化師も自画像も同じ表情をしている。目が閉じている、髪が乱れている、口が半開きなどの特徴がある。すなわち、苦悶の顔である。どれもこれもうめき声が聞こえてきそうである。

 

 様々な作品があったが、私が一番心を魅かれたのは『私の話を聞いてくれ』という作品である。ホームレスのような男が、屈みこんでいる。特徴は口である。まさに、何かを言わんとするべく開かれている。

 

 おそらく、この『話』とは1つ1つの短い出来事のことではない。『話を聴く』というのは、「私の苦しみを受け止めてくれ」ということである。さらに、別の言葉に換言するならば、「なぜ私がこのように苦まなければならないのか」という話を聴くことである。そうした救いを求めている表情なのだ。臨床心理学やソーシャルワークの言葉を用いれば、『霊的な痛み』を感じている表情である。これは、作者自身の苦しみなのだろう。本来、こうした『私の話』を聴くことは宗教の役割である。しかし、前述したように『教会』は遠ざかっている。あふれだそうとする『私の話』を聴く者が不在であることを象徴している。

 

 実は、この作品を観た時、少し泣きそうになってしまった。人生の中で一番つらい時期を思い出したからだ。あの時の私もまさにこんな感じだったのだろう。口を開いて、言葉や苦しみがこぼれだしそうになる。しかし、その受け皿がない。屈みこみ、すがりつくような姿を自分と重ねてしまった。

 

 全体を通して考えたことを以下に記す。私が、この作者や作品展に魅かれたのはおそらく、自画像が多いことからだろう。つまり、自己の探求をしていたことに魅かれたのだ。暗いものに魅かれるのは昔と変わらない。

 

 しかし、今の私は健全だ。以前よりも、作品を楽しむことができる。『魅かれる』ことはあっても、『引きずり込まれる』ことはない。ニーチェの有名な言葉に「暗闇を見つめる時、暗闇もこちらを見つめているのだ」というものがある。確かにそうなのだろう。それゆえ、健全でいなくてはならない。自己の探求や、人生は旅に例えられる。旅には準備が必要だ。暗い夜道を歩くのならば、なおさらである。

 

 

「聴く」ことの力―臨床哲学試論

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