伽藍の堂

読書の記録が中心です。たまに音楽や映画などの話も書きます。

青葉市子のアルバムから考える。センチネルとしての弾き語り

 

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青葉市子 - いきのこりぼくら - YouTube

 

 

 

たいそうなタイトルをつけてしまったが、そんなに深く考えを煮詰めていない。

 

青葉市子のアルバムを買って聞く。youtubeの動画でたまたま見た(聞いた)ことがきっかけである。

 

 なんというか、不思議な歌であり、不思議な空間が展開される。

まるで、お伽話を聞いているようななつかしい感じがする。

お気に入りは「いきのこりぼくら」と「機械仕掛乃宇宙」短いけど「うたのけはい」かな。


青葉市子 - 機械仕掛乃宇宙(20131125) Shibuya WWW - YouTube

 

これは本当にすごい。物語の中に吸い込まれる。 自分が歌の中の『ぼく』

の生を追体験しているようである。ビジョンクエストのようである。

 

 

少し調べてみるとこのインタビュー記事を読んで少し思うところがあった。

「生きている」でも「生かされている」でもなく「生き残り」である。

青葉市子 | INTERVIEW | WHAT's IN? WEB

 

 私は凡夫である。せいぜい、昨日、今日、明日のことぐらいしか考えていない。しかし、感性の鋭い人には、世界がこのように見えるんだなと感心させられた。

 

 今年に入って、こういう弾き語りというものに出会ったけれど、様々な物語が展開されていて非常に面白い。私にはなんだか「邪悪なもの」に立ち向かっているように見える時がある。

 

 ニュースを見ると不気味で邪悪で不可解な出来事が多い。一瞬だけ話題になるけれど、共感も理解も全くできない。とはいえ、そのことに考える時間もないので感じたことも含めて記憶に蓋をしてしまう。しかし、どこかでこの「嫌な感じ」は残るのだ。もちろん、ニュースやテレビの中だけではない。日常におけるやりとりでも同様である。通勤や通学途中、職場や学校の中でも不可解で理不尽なこと、不気味に感じることがあるだろう。

 

 弾き語りの歌はこうした「嫌な感じ」をきちんと成仏させてくれる。いわば呪いを解いていると言ってもよいだろう。私には漠然とした「嫌な感じ」

でしがないが、それらと向き合い、音を作り、歌う。すなわち、人々にある邪悪なものを認識し、補足し、立ち向かうのである。近代合理主義の支配する理性的な「社会」の淵に立ち、邪悪なものの侵入を拒むのである。したがって、弾き語りをする歌手はセンチネル(歩哨)としての役割を持つのである。

 

 これは、酸欠少女さユりの路上ライブ(弾き語り)を見に行った時も少し思ったことである。「なんだか巫女さんがお祈りしてるみたいだな」と感じた。自分でもよくわからない感覚だったが、記憶の片隅に留めておいた。

 

 青葉市子のアルバムに対して、レビュ-で「巫女さんみたい」と表現していた人がいた。真意を確かめる術はないのだけれど、多分同じ感じを抱いているのだろう。