伽藍の堂

読書の記録が中心です。たまに音楽や映画などの話も書きます。

「酸欠世代」の閉塞感について

別の記事に書いたことであるが、かなり冗長な記事になってしまった。

 

削除しようかと思ったが、せっかく思いついたことなので、

一応残しておく。もう少し練りたい。でも、現時点ではこれが限界。

 

「10代~20代の閉塞感を歌う」とある。

この閉塞感、息苦しさというのは、もちろん私自身にもあるからだ。

(年齢はちょっと超えてしまったが)

 閉塞感とはどのようなものなのか。ということを考えたことがある。同じ閉塞感という言葉でも中身が異なるのではないか。換言すれば、種類の異なる閉塞感が存在するのではないか。ということを、学生時代に発表したことがある。以下に3つの閉塞感について述べる。

 

 私が子供の頃、つまり80年代から90年代初期は、

「未来が見える」ことによる閉塞感だ。すなわち、一流の大学から

一流の会社などのパイプラインシステムが機能していたためである。

どの程度の位置に存在すれば、どの程度の未来へとスライドするのか、

ということがわかってしまう。こうした閉塞感である。

 

 90年代以降の閉塞感は異なる。その反対で「先行き不透明」

なことによる閉塞感だ。前述のパイプラインシステムが崩壊し、

努力をしても報われないかもしれない。この先どうなるのかわからない

という不安による閉塞感である。アノミーとも呼べるかもしれない。

 

 新聞や小説などで閉塞感という言葉が使われている時にはこうした

二つの異なる文脈があったように感じた。

 

 さらに、今なら閉塞感の原因をもう一つ考えることが出来る。

それは、「自己をコントロールしなければならない」という閉塞感である。

具体例を挙げれば、アニメの「サイコパス」のような社会である。自らを

清く明るく正しく、コミュニケーションを豊かな人材(人間でないことに注意)へと創り上げなければならない、という圧力である。こうした圧力が

酸欠世代の閉塞感ではないかだろうか。

 

 自己の暗さや醜さを見つめることやそれを吐露することは、「空気が読めない」としてつまはじきにされる。であるならば、浅薄な「明るい世界」を

生き延びなければならない。自分の居場所が存在しないことを知りながら。

そうした息苦しさが弥漫しているように感じる。

『最終講義 生き延びるための7講』内田樹 読了

 

 

 

下流志向〈学ばない子どもたち 働かない若者たち〉 (講談社文庫)

下流志向〈学ばない子どもたち 働かない若者たち〉 (講談社文庫)

 

 

  内田樹が長年勤めた神戸女学院大学退官の際の「最終講義」を含講演集である。建築、教育、学問など内田樹が関心を持っていたテーマについての集大成とも言える。持論は変わらないので、メッセージ自体はブログや他の著作と大幅に被る。しかし、講演という言わばライブでなされたものなので細かいエピソードが面白い。

 

 私が、彼の持論の中で最も面白いと思うものは『教育に等価交換はいらない』というものである。『下流志向』などでも挙げられているが、教育はサービス業ではない、教育をビジネスの論理で捉えてはならない、というものである。

 

 もちろん、様々な批判や異論などもあるだろう。しかし、私は、自分の高校時代を思い出すと深く腑に落ちるのだ。

 

 私が過ごした高校はとある私立の学校であり、教員も生徒に対しても非常に成果主義的であった。他校の成果やノルマ、すなわち、内外の生徒の進学実績や学習時間、成績などを細かく管理していた。そして、成果が上がるように学校全体で日夜努力していた、ように私には見えた。よく言われるのが「予備校みたいな学校」という評判である。

 

 卒業してから10年以上経過した。その努力の成果はどうだろう。成果、すなわち、進学実績は格段に低下した。なぜならば、選ばれなくなったからである。最初に進学実績が低下した時「商品」としての価値が低下した。それに拍車がかかったのである。

 

 それには、不景気による公立高校の復権などがある。簡単に言えば、コストパフォーマンスの良い別の「商品」に乗り換えられたのだ。安くて便利(通学の立地など)な商品を買うのは市場に置いて当然である。

 

 別の言い方をすれば、「ここにしかない」「ここでしか学べない」というものが何もなかったのである。「予備校みたい」ならば予備校に行った方が安上がりである、と市場が判断した結果だ。数字による成果だけを追っていた場合、数字を並べると商品価値は一目両全である。ならば、他のものに簡単に乗り換えることができる。つまり、数字の結果を追及することは自らを唯一の物から代替可能なものへと変身させることである。

 

 私は、個々人の成果を追求した結果、全体として凋落する、という事例を目の当たりにしたのである。皮肉なことに、自分の学校から唯一学んだことはこのことだけである。

 

 以下は余談。

 

 最初にも書いたけれど、持論自体は「いつもの話」である。でも、講演とうライブのためかぽろっと出てくる話がとにかく面白い。

 

 全身硬直して運び込まれた女子高生を医者が治した話。何をしたか。「臨兵闘者 皆陣列在前」と九字を切ったというのである。

 

そんなアホな。

 

文字で読むとそう思う。

 

当然、科学としては反証可能性を欠いている。でも、現場とは「なんとかしなければならない」ものだ。で、「何とかしよう」と思ってやった結果、

何とかなったりする。あとで考えると「あり得ないこと」がまま「ありうる」のだ。こういうのが現場の魅力かなと思う。

 

東京ステーションギャラリー 鴨居玲展に行く

 現在、東ステーションギャラリーで開催中の『没後30年 鴨居玲展 踊り候え』を観に行く。以前、この美術館に来たとき、パンフレットがあり、印象深かったのを覚えている。

 

 どんな作品、人物なのか。という紹介はまとめがあったのでこちらを

参照していただきたい。

 

matome.naver.jp

 

 このパンフレットにある『出を待つ道化師』は見ての通り、赤い

色が鮮烈である。しかし、他の作品は全体的に、暗い色使いが多い。

 

 数多くの作品があったが、いくつかのモチーフがあることが明確である。

 

 先ず、教会である。色や構図が異なるが、「教会」というタイトルの絵が何度も登場する。どっしりと目の前に教会が描かれている作品もある。しかし、だんだんと教会が遠ざかり、空に浮かんでいる作品さえある。

 

 次に、市井の人である。具体的には、よっぱらいの中年男性や老婆である。はっきりと断言できるが、「美しく」ない。 一般的なイメージの美術品というのは、端正な貴族や美しい女性の肖像などだろう。しかし、この人の作品は違う。赤ら顔の酔った男性やしわだらけの老婆、または賭博に興じる人である。脂ぎった顔やしわの刻み込まれた顔を何度も描いている。

 

 最後に、自画像である。道化師の姿もあるが、これも自画像と言えるようだ。なぜなら、自画像として描かれている作品と顔の描き方が同じであるからだ。道化師といえば、涙がペイントされ、笑っている表情が一般的だろう。しかし、道化師も自画像も同じ表情をしている。目が閉じている、髪が乱れている、口が半開きなどの特徴がある。すなわち、苦悶の顔である。どれもこれもうめき声が聞こえてきそうである。

 

 様々な作品があったが、私が一番心を魅かれたのは『私の話を聞いてくれ』という作品である。ホームレスのような男が、屈みこんでいる。特徴は口である。まさに、何かを言わんとするべく開かれている。

 

 おそらく、この『話』とは1つ1つの短い出来事のことではない。『話を聴く』というのは、「私の苦しみを受け止めてくれ」ということである。さらに、別の言葉に換言するならば、「なぜ私がこのように苦まなければならないのか」という話を聴くことである。そうした救いを求めている表情なのだ。臨床心理学やソーシャルワークの言葉を用いれば、『霊的な痛み』を感じている表情である。これは、作者自身の苦しみなのだろう。本来、こうした『私の話』を聴くことは宗教の役割である。しかし、前述したように『教会』は遠ざかっている。あふれだそうとする『私の話』を聴く者が不在であることを象徴している。

 

 実は、この作品を観た時、少し泣きそうになってしまった。人生の中で一番つらい時期を思い出したからだ。あの時の私もまさにこんな感じだったのだろう。口を開いて、言葉や苦しみがこぼれだしそうになる。しかし、その受け皿がない。屈みこみ、すがりつくような姿を自分と重ねてしまった。

 

 全体を通して考えたことを以下に記す。私が、この作者や作品展に魅かれたのはおそらく、自画像が多いことからだろう。つまり、自己の探求をしていたことに魅かれたのだ。暗いものに魅かれるのは昔と変わらない。

 

 しかし、今の私は健全だ。以前よりも、作品を楽しむことができる。『魅かれる』ことはあっても、『引きずり込まれる』ことはない。ニーチェの有名な言葉に「暗闇を見つめる時、暗闇もこちらを見つめているのだ」というものがある。確かにそうなのだろう。それゆえ、健全でいなくてはならない。自己の探求や、人生は旅に例えられる。旅には準備が必要だ。暗い夜道を歩くのならば、なおさらである。

 

 

「聴く」ことの力―臨床哲学試論

「聴く」ことの力―臨床哲学試論

 

 

 

 

『プロ弁護士の仕事術・論理術』読了

 

プロ弁護士の仕事術・論理術 (PHP文庫)

プロ弁護士の仕事術・論理術 (PHP文庫)

 

 

  たまには実用的な本について書いてみよう。大体において、ノウハウ本というものの9割は既知の内容である。正確に言えば、情報として既に持っているものだ。おそらく、著者にとっては長い間実践しているものなのだろう。いわば、著者の身体知として身についているものだ。しかし、読者からすると、言われている内容は当たり前のことに思えてしまう。大切なことは情報として持っていることではなく、実践を通じて身につけることである。

 

 この本も書いてあることの大半は当たり前の内容である。タイトルのプロ弁護士というフレーズから特別な技を期待してはいけない。また、文学者や哲学者のトリビアルな言葉が散見される。この辺は好き好きである。

 

 では、なぜこの本を取り上げたのか。有意義な点が2つあったからだ。

 

 1つは、基本の確認である。特に、「メモを取ること」の効用や番号をふることなどは、「やっぱりね」と大切な基本を確認する上で有効であった。

 

 もう1つは、「人間を見抜く」という部分である。弁護士という言葉や著者の経歴からエリートのホワイトカラーであり、デスクワークが中心かと思う。しかし、当然ながら弁護士は事件を扱う職業である。事件にまつわる人間を相手にするときのノウハウが面白かった。これは、タイトルからは逆にイメージしにくい。

 

 「人間を見抜く」という部分では、「マイナスをもたらす人との接し方」や「どこかおかしいと感じた時」「ツキのない人は遠ざけよ」などの小節がある。

 

 特に、「どこかおかしいと感じた時」は丁重に扱うべし、と述べている。この部分はとても腑に落ちた。私は短気な人間である。チクリと嫌味を言ってやりたい衝動にかられる時がある。絶対にやめようと思った。

 

 「ツキのない人」というよりも、自分を「被害者」相手を「加害者」にしたて上げることが上手い人というのが存在する。学生時代と異なり、職場の人間関係というのは長く続くのだ。ひとたび、「悪者」と認定されてネガティブキャンペーンを続けられたらたまったものではない。自分を殺して丁重に接しようと思った。恥や敗北ではない。合理的な生存戦略なのだ。

 

「君子危うきに近寄らず」である。ゆめ忘れるな。

 

 

 

酸欠少女さユり メジャーデビュー決定!!

 

skream.jp

 

酸欠少女さユりがこの夏にメジャーデビューが決定した。

 

さらに、公式のホームページもできたようだ。

こちらから

さユり

ノイタミナ枠のアニメ「乱歩奇譚」のEDになるらしい。

「おおー」という感じである。

www.rampokitan.com

 

6月29日更新↑こちらのページから少しだけ『ミカヅキ』が流れます。

 

 普段、ライブハウスで演奏する時のお客さんは、私も含めて青年層の男性が多い。 しかし、ノイタミナ枠の主な視聴者層である10代後半から20代

ぐらいの女性にこそ聞いて欲しい(視聴者層は予想)。また、この枠のアニメはストーリーや人間描写が巧みな作品が多い。きっと、この枠が好きな人は、彼女の歌に自分を重ねる人が多いだろう。

 

 酸欠少女さユりの歌声や少し暗めの歌を聞いていると、

いつも大きな開放感がある。

それは、内側のものを否定ではなく、寄り添うようなものがあるからだろう。

 

※12日に久しぶりに路上ライブへ行ったがやっぱり良かった。

こうした瞬間に立ち会えることに素直に感謝できる。

 

 

カノエラナ 第1弾PV『カノエラナです』


カノエラナ/カノエラナです。 - YouTube

 

 つい先日ライブに行ったカノエラナさんのPVが出来た。

注目のアーティストなので、このPVと彼女の魅力について書く。

 

 6月に入り、雨の日が増えた。通勤・通学の電車やバスは

混雑する。低気圧のせいか頭痛がする。不安定な気候と

湿気がまとわりついて、倦怠感がある。

 

 そんなジメジメっとした湿気や重たい空気を全部吹き飛ばすような

明るく元気な歌である。私が感じた3つの魅力を述べる。

 

 1つ目は、この歌の魅力は方言を全開にしていることである。

大学時代、地方出身であることをコンプレックスに感じている

友人がいた。恥ずかしい、という負い目があるのか方言を隠そう

としていた。

 彼女の歌にはそうしたものが何もない。ライブでのMCでも

語るように「地元が好き」「楽しかった」という地元愛に溢れている。

こうした、屈託のなさが彼女と彼女の歌の魅力だろう。

 

 2つ目は、この歌は「出立」を歌っていることである。

大好きな地元を離れて上京した生活の現状を歌っている。新しい環境への

出立といえば、4月の発表が相応しいように感じるかもしれない。

 しかし、6月の今が相応しい。新しい環境で3か月経過し、

色々と思うところがある人も多いことだろう。

「こんなはずではなかった」と後悔したり不安に思ったりするこ

とがあるかもしれない。

そんな時に「ここで頑張ると自分自身と約束した」というフレーズ

には勇気をもらうことが出来る。

 

 3つ目は、ライブハウスで見る時と雰囲気が異なることである。

PVの中ではかなりパワフルな印象を受ける。このPVからファンに

なった人は、新曲が「私の彼氏は2次元の人」であると知ったら

驚くだろう。ライブの時は、もっと、ふんわりとした印象の人である。

 

 多様な歌や歌声が彼女の魅力だ。さらに、雰囲気までも多様に出す

ことができる人は、稀である。ライブで見たことがある私としては、

そうした多様性に触れることで、ますます注目してしまう。

 

 長々と書いてしまったが、この記事を読んだ人は、ぜひPVを観て

元気になって下さい。

 

アクセス数1000到達

アクセス数が1000を到達しました。

 

 今まで、ブログを何度かやっていましたが、三日坊主だったり

アクセス数のカウンターがなかったりして1000超えなんて信じ

られません。つたない雑文ですが、星を頂くこともありました。

とても嬉しいです。読んで下さった方々に深く感謝しています。

これからもよろしくお願いいたします。