伽藍の堂

読書の記録が中心です。たまに音楽や映画などの話も書きます。

乱歩奇譚 5話まで見終えた感想 『踏みにじられた人の物語』※ネタバレあり

乱歩奇譚を5話まで見終えた感想を書く。

※完全にネタバレなので、注意をお願いします。

 

【踏みにじられた人の物語】

 

 まず、今までの感想として思うこと。江戸川乱歩原案というのは良い意味でのミスリードだと思う。乱歩の作品は、歪んだ欲望や奇妙な性癖を持った人間を主眼に描かれている。例えば、『屋根裏の散歩者』や『人間椅子』などである。

 

 この作品は違う。タイトルや登場人物などは原作からとっているが、描いているものは異なる。この作品は、大切なものを踏みにじられた人々に焦点を当てている。

 

 例えば、3話で登場した影男は崇拝している少女を惨殺されている。また、刑事であるカガミは、唯一の肉親である妹を殺されている。それだけではない。彼は両親がいない中で苦学してキャリア組になったのだ。彼は、自分や妹の境遇から「つらくても努力をすれば報われる」という信念を持っているだろう。(妹の努力を応援している台詞がある)そうした自らの信念でさえも無残に壊されている。

 

 それに対し、殺害した方の犯罪者は、感情移入など全くできないような人物として描かれている。「どうせ心神喪失で無罪になる」と臆面もなく言う場面がある。(ちなみに、こうした犯人は、犯罪に計画性があるので現実の日本では先ず間違いなく刑法39条は適用されないです。念のため)法律やシステムの不備、というよりも、不条理でやり場のない喪失体験や苦しみを描いているのだと思う。

 このように事件において登場人物(犯人とは限らない)の踏みにじられた物語なのだと思う。

 

 【EDから考えること】

 

 

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 ネットでも少し話題になっているが、5話のEDの入り方がすごくよい。

二十面相として犯罪者を殺害したカガミが「二十面相は死なない」と呟く。

その後、司法の手を逃れた少女殺害犯は、被害者の父親によって殺害される。

しかし、そこに悪人が処罰される、というカタルシスはない。犯罪者を殺害する犯罪者、すなわち、咎人が増殖するのだ。

 これは、EDの映像からも推測できる。拘束されたシルエットが連鎖的に倒れる。その後、武器(凶器)を持ったシルエットが次々と倒れる。これは、二十面相(復讐する人)が次々と現れることを表現しているのだ。

 さらに言えば、骸骨が四十八種(性行為の体位)をしているシーンがある。

骸骨と言えば、当然死を思わせる。性行為と言えば、その反対で性そのものや生を表す。そうした生死の繰り返しを表現しているのだろう。

 この二つからは、大切なものを踏みにじられた苦しみやその対象への憎しみなど苦しみに満ちた生の輪廻を表すのだと思う。

 

【コバヤシ少年が見るもの】

 

 コバヤシ少年は、岸監督によると「先天的に他人に興味がない」そうだ。

コバヤシ少年は「今のまま生きていても仕方ない」「何をしても退屈だ」と語る。そんな彼が生きる実感を得るのは殺人事件、死体に遭遇してからだ。

 

 普通、死それも担任の教師という身近な存在の死は、大きな衝撃を与えるだろう。しかし、彼には恐怖やパニックなどの衝撃はない。むしろ、事件に遭遇して「生きている実感がある」とまで述べる。

 

 これには、「悪の体験」がある。この場合の悪とは、一般的な社会正義と対概念ではない。理性による計算を破壊することそれ自体が目的であるような至高の体験(注1)である。合理的な秩序で構成された社会にとって、いたずらに命を奪う行為は「悪」である。ジョルジュ・バタイユはこれを「供犠」と呼んだ。

 

 供犠は、供犠に参加する側と供犠に供される側が一体化する。換言すれば、殺害を行うあるいは見ることによって、自分自身の死を生々しく経験する。こうしたメカニズムがコバヤシ少年にも働いたのだろう。学校という合理的に計算された社会、つまり、安全な空間の中では悪や死の存在はない。しかし、担任の死体を発見したことで、自分の死や終わりなどを意識したのだろう。映像、つまり、コバヤシ少年の視点から彼岸花が咲くことからも推測できる。

 

 今後の展開によって明らかになるであろう点は以下のものである。コバヤシ少年は、犯罪者の内面を理解できる。例えば、クラスメイトや少女誘拐犯を見て動機を即座に看過している。しかし、前述の「踏みにじられた人」つまり、影男やカガミの姿を見ても何も言わない。興味がないわけではないのだろうが、ただじっと見つめるのみである。そうした人々の苦しみに触れて彼がどうのように感化されるのか。ここが今後の見どころであると思う。

 

 引用文献

注1 田中智志、今井康雄、越智康司、小玉重夫、矢野智司、山名淳・(2009)『キーワード現代の教育学』東京大学出版会 p164

 

キーワード 現代の教育学

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